軍師「官兵衛」の足跡を見るin中津 | ||||||||||||
大河ドラマ「軍師官兵衛」で盛り上がる豊前中津へ家族で旅をした。だんごの目的はメインの中津城見学だが、胃袋優先のカミさんは中津カラアゲがメインだったという実しやかな噂はカラアゲ屋3軒はしごで現実のものとなった^^ とにもかくにもだんご一家+アルプはカミさんのミラジーノに乗り込み、休日の豊前路を北上した。 自宅から160km。丁度12時ごろに中津城へ到着した。早速お城見学と行きたいところだが、まずは1軒目のカラアゲ屋で軽く腹ごしらえだ。
カラカラに揚げられたお肉は、スナック菓子みたいで香ばしくペロリと平らげた^^ ようやく中津城へ向かい、外から城を眺めた。背後は中津川で、そのまわりにはお堀が巡らしてある。 場内に入ると意外とこじんまりした本丸広場で、右手に官兵衛の資料館が作られていた。 黒田官兵衛は、1587年九州平定の論功行賞として豊前8郡のうち6郡12万石を秀吉から貰った。しかしそれは紙切れだけの書状で、実際の入国では字侍の大きな抵抗にあい、所領を平定するのに手こずったそうだ。
お城の中は資料館になっており、黒田家が福岡へ国替えした後に中津を継いだ奥平家にまつわる遺産が多く展示されていた。 4層5階の天主を登りつめると、360度のパノラマが開けた。 中津川から豊後灘を見る。このあたりは埋立地で、中津城は昔は海に面しており、海城と呼ばれたそうだ。 Souがお腹を空かせているのと眠いのとダブルパンチで、機嫌が悪い。そそくさと城見学を終え、次の目的地へ移動だ。 次に向かったのは「合元寺」通称「赤壁」といわれるこの寺は、天正15年(1587年)、黒田孝高に従って姫路から中津に移り住んだ浄土宗西山派、開山空誉上人が開基したと伝えられてる。 天正17年(1589年)、黒田氏が前領主の宇都宮鎮房を謀略をもちいて中津城内で暗殺した際、その従臣らがこの寺を拠点として奮戦し最後を遂げ、以来、門前の白壁は幾度塗り替えても血痕が絶えないので、ついに赤色に塗り替えられるようになった、というのがこの赤壁の由来だ。当時の激戦の様子は、現在も境内の大黒柱に刀の痕が点々と残されているらしい。 中を見学したかったが、Souがうつらうつら寝てしまったので、外から眺めるだけにして先を急いだ。 黒田官兵衛だから略して「クロカン」!何ともそそるネーミングだこと^^ 次に2軒目のカラアゲ屋を目指した。
晩御飯用にもう1軒カラアゲ屋へ移動。 「大吉」と言うお店で、濃厚ピリ辛の人気店だ。 結果から先に言うと、「もり山」のカラアゲが一番美味しかったです!全国NO1はダテではない^^ まだ見足りない中津だが、Souが完全熟睡に入ってしまったので、市内を離れ耶馬渓入り口の「羅漢寺」まで移動する事にした。 羅漢寺は大化元年(645年)にインドの僧、法道仙人が金銅仏を持参しお寺を始められたのがはじまりであると伝えられている。全国羅漢寺の総本山で由緒ある寺で、本寺は昭和18年に火災で焼失、現在の本堂は昭和44年に再建されたものだ。 羅漢寺は羅漢山の中腹にあり、岩壁には無数の洞窟が口を開き、山門も本堂もその中に埋め込むように建っている。そして洞窟には3700体以上もの石仏が安置されており、かつては大友宗麟の焼き討ちを受け、黒田官兵衛に50石の寺領を与えられて存続したといわれている。 リフトで約5分。羅漢寺駅から徒歩で本堂へ向かった。 気の遠くなるような歴史とスケールの前にだんごの下手な言葉は要らないだろう。 本堂内部に石仏が居並ぶ。何も解らないSouも興味津々見つめていた。 沢山のしゃもじは人々の想いが込められ、見守る石仏に救いを託しているのだろうか。 ほころび始めた桜と風格ある本堂。落ち着く空間だね^^ 厳かな時間が過ぎて、帰りは長い参道を歩いて帰る事にした。Souをなだめておだてて足場の悪い石段を降りて行った。 |