「だんグラ」初ツーリングin南阿蘇三社巡り

やっとこの日が来ました^^新星グラディウスで初めての南阿蘇ツーリングです!

記念すべき初走りにだんごが選んだ場所は南阿蘇周辺の三社巡り。最近読んだ観光ガイドブックで、「草部吉見神社」と言う降り参道の珍しい神社を見つけました。

ここにどうしても行きたくて、それならば前々から行きたかったパワースポットの「上色見熊野座神社」にも寄りたいし、何なら後一社加えて三社巡りにしようと言う魂胆でバイクを走らせました^^

この日は朝から前輪のタイヤを新品に入れ替えて、昼前からのスタート!「100kmぐらいは馴らしをして下さい」と言われて、前輪の様子をうかがいながら俵山トンネルを抜け、南阿蘇村へ。

旧久木野付近までは休日とあって沢山の車が走っていたが、高森町付近に近づくと国道にもほとんど車が走っていない!

それに阿蘇噴火の火山灰があたりを黒く染め上がて、曇り空もあわさりまるでゴーストタウンの様相><

「おーい!みんなどこにいったのか~」

根子岳の優れた展望地で有名な「月廻り公園」で一服。気温8度ぐらいかな・・・寒いよ~

足元には火山灰が積り、風が吹くと舞い上がる。バイクにも薄ら積もっているようだ><

自宅から約60km、一社目の「上色見熊野座神社」へ到着!

参道の目の前が国道で、対面の郵便局にバイクを止めて階段を上った。

うっそうとした杉林の中に真っ直ぐに延びた階段と、その両側には均等に灯篭が置かれている。

降り積もった火山灰で辺り一モノクロームの世界だ。
目に見える範囲に社殿が見えない。どれぐらいの距離だろう?最初は比較的緩やかな階段が、どんどん傾斜を増してきた。
重たいライダーズウエアを着こんでいるからね・・・ぜいぜい言いながら長い階段を行く。

参道が少し右へ曲がると鳥居があり、そこから遠くに社殿が見えた。
「後少しだ」
山深くなり周囲が火山灰から逃れて色深くなってきた。400~500段ぐらいはあっただろうか。やっと本殿に着いた。


小さく質素な作りで、ここにも火山灰が降り積もっている。
お参りを済ませると、後方上にまばゆい明かりが差しこんでいた。あれがパワースポットの岩穴だ。


しかしこの先は完全な山道で足場も悪い。せっかく来たから・・・ひいひい言いながら足を運んだ><

思っていた以上のスケールで自然の石橋のようなアーチ状の穴が開いている。


下に入っても人が十分立てる高さで、なんでこんな大穴が開いたのかほんとに不思議だ?


穴が開くって事は、詰まっているものが抜けたとか、難しい問題が解けたとか、風通しが良くなり縁起がいい!
東側から吹く清らかな風が、深い森の空気を淀みなく吹き抜け社へ抜ける。ここは神の聖地。そんな雰囲気で恐れ多い。

穴の向こうは南阿蘇の原野だが、木が茂ってあまり展望は聞かない。
この岩は阿蘇の溶岩が堆積して固まったものだろう。横に層のように筋があり、たくさんの瓦礫を含んでいてさざれ石の様相だ。
足元には崩れた岩が無数に落ちていて、岩の下にはあまり長くいないほうがいいだろうね。

十分堪能したところで山道を降りて行く。社殿の真横までスクーターで来たふととき物がいる!
横に車道があり、車でも来れるのだ。歩かないと意味ないでしょ!
膝をがくがくしながら国道まで降りてきた。一社目が一番ハードなところなんでちょっとお疲れモード(^^;


一服して次は「草部吉見神社」へ向かう。

暇ならば読んでね^^

上色見熊野座神社とは
伊邪那岐命、伊邪那美命、石君大将軍を祀る。参道には、100基近くの灯篭が並び壮観です。神殿後方の穿戸岩には、健磐竜命の従者鬼八法師が蹴破ったといわれる縦横10メートル以上の大風穴(穿戸岩(ほげといわ))があります。

「穿戸岩」は巨大な岩山を大きな風穴が貫いていることから、どんなに困難な目標でも必ず達成できる象徴として『合格・必勝』のご利益があると評判です。また、神社の御神木「なぎ」は「凪」に繋がり、波風を鎮めること、さらには葉脈のない葉の特徴から、縦には簡単に裂けるものの横に引きちぎろうとすると相当の力が必要なことから、昔から男女が『縁が切れないように』とお互いになぎの葉を身につけたり、嫁ぐ娘に母親が持たせることもあったそうです。さらには、男女のご縁だけではなく大切な人とのご縁を結ぶことから『商売繁盛』にも通じる大変縁起のよい木です。

高森峠を越え、国道325号線を高千穂方面へ。「奥阿蘇キャンプ場」を過ぎて右折し、1,2キロ走ったところに「草部吉見神社」はあった。


下り参道だけに社殿は見えない。杉の大木が密集した荘厳な森の参道を降りていく。

長い階段を降り、踊り場にくると下に社殿が見えてきた。日本三大下り参道だけになかなか立派な本殿だ。


残りの階段を駆け下り、本殿へ向かう。村の人々は大事にしているのだろう。履き清められとても綺麗だ。


しかし誰もいないなぁ・・・
お参りを済ませ、ご神木だろう杉の大木を見やる。
樹齢1000年ぐらいだろうか。1000年の歴史を見守りながら生きている大木そのものが生きた神なのだろう。

本殿向かって右下には小さな池があり、泉水が流れ込む。「不老長寿の水」と書かれていた。これは飲まずに帰れないでしょう!


下に降りると、本殿とはまた違った冷気に満ちていて、頬が「凛」と鳴りそうなぐらい清々しい。
ちょっとこの場所は気に入った^^周囲をプラプラ参歩して身体を浄化したのだ。

後ろ髪引かれるように参道を登りバイクに跨った。時刻は13時半を回っている。お腹が空いたよ~

暇ならば読んでね^^

草部吉見神社とは

社名の草部は「クサカベ」と読みます。御祭神は神武天皇の長男、彦八井耳命(ヒコヤイミミノミコト。国龍神、草部吉見神とも呼びます)です。このお宮にまつわり、次のような神話が地元で語り継がれています。彦八井耳命が高千穂峰からこの地にいたり、しばらく川走りの窟に住まわれたが、宮居を定めようと占ったところ、吉の池が良いということになりました。この池には人々を困らせる大蛇が棲んでいたので、命はこの大蛇を退治し、「こここそ吉い宮を立てる場所だ。」とおっしゃり、池を埋めて一夜で屋根をはじめ壁も草で葺いて宮殿を建てました。館が草の壁だったのでいつしかこの地が草部と呼ばれるようなりました。

神話はさらに続きます。彦八井耳命の弟、神八井耳命の子供、健磐龍命(タケイワタツノミコト)が天皇から阿蘇を治めるよう命じられ阿蘇に向かう途中に館に立ち寄り逗留します。そこで彦八井耳命の娘阿蘇都姫を娶ります。この後、健磐龍命が妻と協力して阿蘇を開拓し農業を広めたという神話は有名です。彦八井耳命は健磐龍命の岳父に当たるわけで、健磐龍命を祀る阿蘇神社でも三の宮として彦八井耳命が祀られています。また、彦八井耳命には“日向から火の玉(乾珠)と水の玉(満珠)という二つの石製の玉をもって来た”という話もあります。水の玉にはいつでも雨を降らせる力が、火の玉にはいつでも日照りをもたらす力があったと言います。命はこの玉により自在に天気を操り、この地に農業を広めたと言われています。

さて、お宮は道から階段を下りたところに立てられています。社殿は、弘治三(1556)年に甲斐左近将親成によって造営され、後に傷みが激しくなったので明和九(1772)年に里人らによって現在の社殿に補修されたことが棟礼からわかります。近年では昭和51年に大改修が行われています。流れ造りという形式で彫刻など技巧を凝らした造りとなってます。境内にはこんこんと清水の湧出する御塩井という湧き水があります。ここの湧出量は多く一度も涸れることがなかったといいます。火の玉、水の玉の伝説でも分かるよう彦八井耳命は水を自在に操る力を持つ神様であったようで、この泉が祭祀の本体であるとも考えられます。吉見という名称も吉い水という意味だとも言われます。宮の形式がいわゆる「下り宮」になったのもこのためではないかと言われています。

国道325号線に復帰し、高千穂方面へ進む。県境のループ橋を越えて県道8号線へ右折。この辺りは商店も無いので、国道218号線へ先を急いだ。
五ヶ瀬川源流を超える付近では道も狭く、あちらこちらで工事中。砂の浮いた舗装道を注意して進んだ。

五ヶ瀬町へ近づくと道路が広くなり、路面も良い。丁度馴らしの100kmを超えてきたので、少しずつアクセルを開けた。
股の下に生き物がいて、ドロドロ動いている。だんごはまだ飼いならせないロデオボーイのように様子を伺いながら手綱を引いた。


昔、勝海舟は西郷隆盛と対面した坂本竜馬に「西郷とはどんな奴だったかい」と聞いた。
竜馬は「大きく叩けば大きく鳴り、小さく叩けば小さく鳴る」と評したと言う。
余談だが、グラディウスはまさにそんな感じで、乗り手の実力以上の動きはしてくれないようだ。
あくまでも乗りこなして速さを引き出すような、そんな操れれば操れるほど面白いバイクだと思った。

自分の意志とバイクの動きが同調してくる。乗れてきた瞬間だ。まるでレールの上を進むような感じで、何があっても転ぶ気もしない。
そうしているうちに国道218号線にぶつかり、熊本方面へ右折。県境の「特産センターごかせ」でやっと昼食にありついた。


鶏煮込みそばは味が濃厚で美味しかった^^

お腹も満たしたところで最後の「鞍岡祇園神社」を目指した。
一旦熊本県に入り、九州のヘソと言われる旧蘇陽町から国道265号線を椎葉村方面へ左折。宮崎県に入り、路面にまかれた凍結防止用の塩化ナトリウムに注意しながら進んだ。
三社目の「鞍岡祇園神社」はとりわけ有名でも、何かがある訳でも無い。しかし神社の背後にそびえる「祇園山」は九州最古の地と言われ、九州島誕生の時最初に隆起した場所だと言う。
そんな太古のロマンを感じたくて足を運んだのだ。

鞍岡の集落から鳥居をくぐり正面まで進んだ。バイクを止め、これまた歴史のありそうな大木に圧倒される。


ここは観光地でもなく小さな集落の「氏神様」的ローカル感が漂う。
中に入ると大きな仁王像が立ち、ここ特有の参拝の儀礼が掲げられている。だんごはここの儀礼通りにはせず、いつもの神社参りのように参道を進んだ。


本殿は撮影禁止のようで、お参りだけ行う。本殿内には参拝者がいて今日初めてのにぎわいだった。
社務所があったのでちょっと覗いて見たが、巫女さんがいないので求める事が出来ない><

地元の人だろうか、参拝者が仁王像の前で立ち止まり儀礼通りの作法で礼をして去っていく。
ここも地元人たちが大切にしている場所なんだろうね。


最後は少し場違いな感もあったが、予定の三社を巡って満足!

暇ならば読んでね^^

鞍岡祇園神社とは

創始の年代は詳らかでないが、欽明朝時代といわれ、曾男神蘇民将来・巨旦将来を合祀して祇園社と称し、疫病除け、厄難消除の守護神として知保郷の崇敬者が多かった。その後、文徳天皇の天安元年(857)肥後国曾男神に将五位下を授くと『文徳実録』にあり、祇園神社の曾男神であるといわれている。貞観十一年(869)に山城国八坂神社より素盞鳴大神を勧請して祭祀し、伊弉冉大神、大名牟知大神、奇稲田姫尊を合祀して五穀豊穣の守護神として、郡内並に阿蘇郡内の屈指の神社として現在に至っている。
元久二年(1205)那須大八郎宗久・宗昌参拝し栃の木を植えたと言い伝えられている。天正六年(1578)大友宗麟の兵により当神社他三社は焼失し、宝物文献等が焼失したが、御神体は北の殿に移し、享保五年(1720)まで百四十二年の間、北の殿にて祭祀されていた。享保五年(1720)神殿を再建し、さらにまた天保六年(1835)に北の殿の大ケヤキを以て神殿を再建、六月十五日に遷座祭を斎行したとの文書がある。もともと神殿の屋根は草葺で約十八年毎に葺き替えが行われていたが、昭和五十二年天皇陛下御在位五十年記念並びに宮崎国体山岳競技開始式場記念事業として、氏子崇敬者の寄進により神殿は銅板葺に改修、拝殿は銅板葺に増改修した。現在の社殿がそれで昭和四十九年に町文化財に指定された。『日向地誌』によれば、大己貴命、素盞鳴命を合祀し、旧称祇園大明神といったが、明治四年日陰神社と改めたとある。その後、明治四十三年に、明治四年まで熊野三社権現と称した折立神社(祭神:伊弉冉命、伊弉冉命、事解男命)、冠八面大明神と称した清水神社(祭神:八岐大蛇)、浜妙見と称した長司神社(祭神:水波女命)の三社を合祀し、昭和十年二月祇園神社と改称した。

祇園山は、祇園山層と名づけられた地層から四億三千万年前に生息していたというサンゴや三葉虫の化石が発見されました。太古、日本は太平洋の熱帯域にあり、プレートで運ばれて、約1億年前地殻変動で隆起したものが祇園山だと言われます。九州島の誕生です。祇園山にはまだまだ化石がたくさん眠っていて、日本列島の謎が解き明かされるのを待っているのです。 
 

神道とは、自然の草木一本一本まで全ての物に神が宿ると言う。
火山灰に埋もれた石段や、苔むした灯篭。転がった瓦礫に、振りそそぐ光でさえ。


素直に全てを敬っても災難から逃れる事は出来ないかも知れない。
それでも慎ましく、敬い、尊ぶ事が少しでも災難を避ける事に繋がると思うのだ。


だんごのニューマシンにも魂を宿す事が出来ただろうか。

「楽しいバイクライフを続けるために」そんな事を考えながら、轍を踏みタイヤは転がっていった。

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